【社伝記】社伝記解読(1)





美 社 神 字  (-上巻- 落合一平 解読版をもとに一部再読 ) 

纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮に、天ノしろしめし給ひし、大帯日子 淤斯呂和気ノ 天皇の御代、日本武尊 東(あずま)の蝦夷(えみし)等 言向け平和(やわし)給ひて、美鈴刈る信濃国を 御還りましし 給ひし時に、この赤須里に至りましぬ。

時に 赤須彦、御蔭の杉の木の下(もと)に 仮宮を設け、八重管薦(やえすがこも) 八重を敷き並び、厳(いか)し楯矛 御旗立て並べ、いと厳かにす。



纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮に・・・で始まる文章形式は、「豊後国風土記」「肥前国風土記」にある。

「纏向の日代の宮に天下を・・・」と、修飾して景行天皇を表現する原型がどこかにあったのか?
同じ、現存する他の風土記ではこういう表現はとっていないようだ。
播磨国風土記では単に、大帯日子命と記し、常陸国風土記でも単に大足日子天皇と記している)。

Wikipediaによると、「豊後国風土記は、編者も不詳であるが、大宰府が深く関わっていたと推定される。一説では、723年に西海道節度使として大宰府に着任した藤原宇合が、九州の他の国の風土記と合わせてわずか10ヶ月ほどで完成させたともいわれる。」とある。

太宰府は、664年、博多湾岸の那津官家(なのつのみやけ)にあった筑紫の大宰(つくしのだざいという役所)を、現在の大宰府政庁跡地(大宰府市観世音寺)に移転させ、正式に発足したようだから、当時(740年頃)は十分機能していただろう。

この表現は、日本書紀への権威付け(中央から、書紀の内容を風土記に反映させるようにという命令)があったのか? あるいは、太宰府の地方役人が大和王権へのゴマすりの結果か?

風土記の撰上が命ぜられたのが、和銅6年(713年)で、日本書紀の完成が養老4年(720年)。
倉野憲司井上光貞は、日本書紀の一部は風土記の材料が使用されているという説をとっている。
各地の風土記は、日本書紀と同時進行形で編集されていったのかもしれない。

そうすると、この社伝記も同時代のものと考える事が出来るが、ではなぜ古代文字で書かれたのか?という問いには、答えられない。

古代文字で書かれた理由には、他にとても大きな歴史上の秘密、意味があると思えるのだ。 (・・・・この項、別記予定)