伊那谷の 熊鰐氏 と 安曇氏 と 塩竃神社



伊那谷の駒ヶ根市東伊那の塩田という集落に「塩竃神社」があります。
御祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、 底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神です。



宮城県塩竈市の鹽竈神社の御祭神は、塩土老翁神・武甕槌命・経津主神ですが、伊那谷の塩竃神社は、伊弉諾から生まれた神々で、阿曇連(阿曇氏)の祖神の海神(わたのかみ)です。

志賀海神社の御祭神は綿津見三神の、底津綿津見大神・中津綿津見大神・上津綿津見大神で、代々阿曇氏が祭祀を司ります。

また、住吉大神の御祭神は住吉三神の、底筒之男大神・中筒之男大神・上筒之男大神です。



ではなぜ山奥に海にゆかりの塩竃神社があるのだろうか?

実は、伊那谷の大御食神社の古代文字で書かれた社伝記に、こう書かれています。

『またこれより すぐに中沢の 熊鰐(くまわに)に 山の 麁物和物(あらもの にぎもの)を菜らしめ、川戸幸をして 川の魚(まお)捕らしめ、また 野彦には 野つ物を取らしめて、大御食 大御酒 種々(くさぐさ)物を御饗(みあえ)たてまつれり。』




ここから分かるように、伊那谷に 熊鰐氏が いたのです。

熊鰐氏は、「日本書紀」にみえる豪族で、筑紫の岡県主の祖。
仲哀天皇8年天皇を周防の沙麼にでむかえ、魚と塩をとる地域を献上、海路を案内しました。
また干潮のため神功皇后の船が洞海湾を進めなくなった時、多くの魚と鳥を集めて皇后の怒りをしずめました。

また『神武天皇の兄達も熊鰐一族で、岡田宮に居住していた』という説もあります。

そして先代旧事紀によれば、神武東征のときに、饒速日命の従者の 防衛(ふせぎまもり)のなかに、赤須彦の先祖である表春命・天下春命らがいました。

ですから阿智一族と熊鰐一族は、縁のある関係だったことが推定されます。


穂高神社(白雉4年(653)創建)の主祭神穂高見命は、別名宇津志日金折命(うつくしかなさくのみこと)と称し、海神の御子で神武天皇の叔父神に当たり、太古此の地に降臨して信濃国の開発に大功を樹られたと伝えられ、阿曇連は子孫なりとあります。

阿曇(安曇)氏の先達が、すでに1900年前、この地にいたという、有力な証明なのです。