大御食神社の社家は、高皇産霊神の末裔。

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『古事記』 によると、天地開闢の時、最初に天御中主神(あめのみなかぬし)が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすび)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神(たかみむすび)で、子に知恵の神・八意思兼神(やごころおもいかね)がいる。

天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の三神とされ、そのうち、神皇産霊神・高皇産霊神は、皇室・朝廷に直接的に関係していると考えられ、神祇官八神として八神殿で祀られた。


『先代旧事本紀』 では、思兼神は 信濃国に降り立って信之阿智祝の祖になったとし、また、秩父国造の祖となったとしている。
子に天表春命・天下春命がおり、共に阿智神社に祀られている。

また、『秀真伝』(ほつまつたえ)によると、思兼神は天照神の妹・和歌姫と夫婦となり、天野州川辺(野洲市・伊勢遺跡?)で、山陰・北陸を治め、手力男神(たじからお)をもうけた、と記される。

思兼神が身罷るに際し、現在の信濃國阿智村に【辞洞・去洞】(イナホラ)を設け、後に祀られた。 以後、【伊那】の地名となった。


『先代旧事本紀大成経』「神代皇代大成経序」 (かんみよ すめみよ の おほひなる つねのりの ついでぶみ) には、吾道家のことが記されている。 

推古天皇の言葉として聖徳太子が奏上するには、

「わが国は 神国であり 天皇は 日の神の子孫である」
と述べ、神徳が盛んな時は国は豊かゆえに神道と国家皇政の道が不可分である。
しながら神代は年々が過ぎていくごとに隔たり、先皇の行跡は 日々が過ぎて いくごとに隔たるが、それは
「近世の史家(このごろの ふみつかさ)は、或いは秘し、或いは偏りて 而も私無きことを得ず。」
と警告をし、その上で上宮太子(聖徳太子)は、
「天皇は、先代にあった出来事を 忠実に記して、後の天皇の永久の鏡として、それと違わない法を定めなければならない」

と訴えた。

これを聞いた 天皇は
「上宮太子の御意見は、また自分も兼ねて思慮していたことである。 大王上宮太子よ、御配慮なさって下さい。」
と答えた。。

そこで太子は、蘇我馬子の宿祢に命じ、朝廷にある記録と、吾道・物部・忌部・占部・出雲・三輪の 六家の、祖先人のことを記した家蔵の記録を集めさせ、また中臣御食子に命じて、馬子大臣と共に歴史の編纂を おさせになった

・・・・この後 上宮太子は、集めた記録を ご覧になって こう言われた。

「神代の事を見ると、まだ全く分明ではない。 隠し文があるのではないか。」
と。

忌部と占部が答えるには

「記録は 惜しんでないが、磐余彦天皇の御代に 本の祠に安置した、祖神の土笥(はにはこ) があります。」 
という。


平岡宮(忌部氏縁の社)と 泡輪宮(安房)から賜った 土簡五十筒の土笥は、上宮太子に 献上された。
 そこには 神代の出来事が すべて明らかに 記されてあった。


すなわち、吾道家は 『吾道・物部・忌部・占部・出雲・三輪の六家』 と称された、由緒ある家柄だった。

そして、神代文字(阿比留草文字)で書かれた美社(うつくしのやしろ)神字社伝記には、

「吾はこの国の魁師(ひとこのかみ)、阿智ノ宮に齊(いは)い祀(まつ)る、思兼ノ命の子、表春(うわはる)の命の裔(はっこ)、阿知の命の御子 阿知山の裔の 別裔、 赤須彦なり。
天皇の御子(日本武尊)い出ますと 聞き、迎え たてまつりき。」

と、赤須彦の出自が語られている。


大御食神社の神官家は、

高皇産霊神 ー 八意思兼神 ー 手力男神 ー 表春命・天下春命 ・・・・ 阿知命 ー 阿知山 ・・・

・・・ 赤須彦  ・・・・ (現)神官家

なのである。

阿比留草文字で書かれた社伝記から古代日本語を謎解く

■ 日本武尊は、
【やまとたけのみこと】 と書かれています。

「やまとたける」 と読ませたのは、江戸の伴信友からです。
古代、「やまとたけ」と呼ばれていたことは、間違いありません。



■ 「迎える」 という語句は、変遷していると思われます。

通説では、 
「迎える」は口語。文語では「迎ふ」。
本来の活用は、「ハ行下二段活用」だった。
室町以後、長い期間を経て「下一段化」していったが、「ハ行」の場合は別の理由があり、一時的に「ヤ行下二段」を経由して現在の「ヤ行下一段活用」に至ったと考えられる。
・・とある。
だが文語と口語の区別は、いつ頃からあったのか?
また途中で「ハ行」の面影がなくなったということではなく、古くから『ゑ』が使われていたことから、ヤ行であったのだろうと推察することができる。
神代文字を異端視せずに、専門家の研究を期待するところです。


■ 「奉りき」 も古い使い方

【古事記】 仁徳朝記
「 朝夕、淡路島の寒水を汲みて大御水奉りき 



■ 「いまし」  【汝】  なんじ。あなた。 〔上代語〕二人称。

【万葉】 2517 に、
たらちねの母に障らばいたづらにいましも我(あれ)も事のなるべき

上代語であるが、平安時代にも漢文訓読語としては用いられた。
【日本書紀】の古訓によく用いられる語。


■ 「たそ」 だれだ。

【宇治拾遺】物語(巻十・九)122小槻当平の事に、
「たそ。この門たたくは」と言ひければ、 ・・・とある。




「ひと‐このかみ」 【魁帥・首長】 

【書紀】〔720〕神武即位前戊午年八月に、
「天皇兄猾と弟猾とを徴さ使む。〈猾、此をば宇介志と云ふ〉是の両人、菟田県の魁帥なり。〈魁帥、此をば比登誤廼伽彌(ヒトコノカミ)と云ふ ...




いくつかの語句を挙げてみましたが、残念ながら私はこの分野では門外漢です。
しかし、疑問がいくつか湧いてきます。

おそらく国語学者らは触れないでしょう。

しかし遠からず、竹内文書等の古代文字で書かれた古史古伝の信憑性が証明されることでしょう。

各地に伝わる古代文字(3)

枚岡神宮


大和神社



南宮神社


戸隠神社


生國魂神社


住吉神社


石神神宮