伊那谷 律令時代(10世紀)の地名(郷名)



倭名類聚鈔 (931-938 編纂) によると、奈良時代の 伊那谷の郡と郷名は、

以下の通りです。



【 諏訪郡 】

高山寺本 :  土武、 佐補、 美和、 桑原、 山鹿、 返良 

流布本   :  神戸


【 伊那郡 】

高山寺本 :  伴野、 小村、 麻積、 福知

流布本   :  輔衆



(参考)
天竜川の古名は 麁玉河







律令以前(1~2世紀)の伊那谷の地名


律令以前(1~2世紀)の伊那谷の地名を、社伝記から拾い出してみる。


当時の赤須彦は、赤須ノ里の長であり、

この国(おそらく阿智~山本)の 魁師(ひとこのかみ)であった。


小出の里、宮田の里、赤須の里、上穂の里、中沢の里、石曽根の里、片桐の里、

与田切の里、大草の里、市田の里、飯沼の里、知久の里、育良の里、

それに阿志島の里、と 合わせて十四の里が あったことが読み取れる。

(阿志島の里は、阿智の里かも知れない)





社伝記を読む 下 (その一)


社伝記 下 (その一)


軽島の明宮(あかしのみや)に ましまし給いし、品陀和気ノ尊の御代、三十八年の水無月九日の 朝まだき 小暗きに、上穂ノ里太郎真彦の弟(おと)の子・八尾取(やおとり)というに憑(かか)りていわく、

「 吾は日本武尊なり、尾張ノ国なる 厳郎女(いついらつひめ)と共に住まむ。迎えませよ 」。

また「 乙女の床の辺に、吾が置きし剣の太刀 その剣はや 」

と言いて、社(やしろ)を巡り巡りたり。

よりて 御食彦の裔 瑞健彦、阿知の真主 篠建大人、阿知島ノ里に住む 大武彦と議りて、秋 文月 二十二日(あき ふづき はつかまりふたひ)と云う日、尾張ノ国 熱田ノ宮より 草薙ノ剱の御霊代、また 美しの杜に坐(ま)す宮簀姫 またの名は 厳郎姫 を迎え奉りて、所の名を 美しの森 と御名負はせまつる。

熱田ノ宮より迎え奉る その装(よそほひ)いは、厳楯矛(いかしたてほこ)、日の御旗、月の御旗、覆衾(おほひふすま)、御榊に木綿(ゆう)取り垂でて 迎え奉れり。

また、先例(さきのためし)の随々(まにまに)、御黒酒、御白酒、はた大御食種々の物を、山成す如く供え奉りて、遠近の里人(おちこちのさちひと)集ひ、七夜七日宴の 宿直(とのい)奉りき。
ー つづく ー