二人の天照大神

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新年にちなみ、天照大神について記したいと思います。


天照大神は、日本の主宰神として伊勢に奉られ、宮中には皇祖神として賢所に奉られる。 

賢所(宮中三殿)は、明治時代初期に再興され行政機関の筆頭に置かれたところの「神祇官」が、附属の神殿とともに創建し天照大神を奉った。 

古代の律令制で設置された「神祇官」は、仏教勢力の台頭により十世紀以降絶えたが、明治政府により復興した。 
しかし、平安以来の仏教勢力の巻き返しがあり、神祇省への降格され、間を置かず廃止された。 

これらのことは「日本とは?」と問ううえで、非常に重要な観点である。 


さて、前置きはこのくらいにして、二人の天照大神について・・・。 

正史とされる記紀のうち、古事記は「天地が初めて分かれた時、高天原に成り出でた神の名は天之御中主神。」、
日本書紀は「天地が生まれる初め・・・天地の中に一つの物が生じた。・・それは神となった。名を国常立尊と言う。」
・・とある。 

一方、古史古伝には「竹内文献」「先代旧事本紀」「ホツマツタヱ」などがあるが、竹内文献には天地創造の歴史が書いてある。(このことは別稿で・・。) 

その「竹内文献」には、 
・天神御系譜(神代七代) 
・神皇御系譜(皇統二十五代) 
・鵜草葺不合天皇御系譜(不合(あえず)朝七十二代) 
・神倭(かむやまと)朝(神武天皇~現在の総称) 
が書かれている。

その中の
・神皇御系譜(皇統二十五代)には、 
  4 代 天之御中主神身光天皇 
 22代 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇 (アマテラス) 
が記されている。 

すなわち記紀には記されていない、神代・上代・不合朝の数十代(数百年)の時代があり、だから記紀の記述より数十代(数百年)前に、天照大神はいたという。 

この方が、伊勢に奉られている天照大神で、はじめの天照大神様なのだ。 

私は「竹内文献」を概ね事実であろうと思っている。 


では、二人目の天照大神とは誰なのだろうか?
「ホツマツタヱ」にはアマテル(天照神)と言う男神がいる。 

日の神、大御神、アメノミヲヤ、イセの神 (妹背の神) ともいい、幼名をウヒルギ (大日霊貴)、斎名をワカヒトといった。

アマテルに大日霊貴と字を宛てたために女神とされ、だから天照大神男神説はここからでている。 

先の 皇統 22代の 天照大神は偉大な女神であり、その記憶は永く語り継がれ、後の 大日霊貴と同一視された。 


七世紀に起きた『壬申の乱』は、天皇の座を巡り 雌雄を決する戦いだった。 
勝者の天武天皇は、天照大神ー神武天皇の後継者として、その正統性を記すために記紀を作成し、伊勢の神宮を重用した。 
(壬申の乱は、後の南北朝の争いの元ともなった。) 


その時、二人の天照大神は、一人にされた。
その方が、七世紀における覇権の正統性を編集するのには都合が良かったのだった。 

なぜなら、不合朝の七十二代を認めれば、壬申の乱で天武が仕上げをし、持統が藤原氏と簒奪した神倭朝(大和朝)に、新たな火種を残すことになるからであった。 

すなわち、天照大神ー神武天皇の後継者として名乗り出る者は、いくらでも居たであろう。
そうすれば、戦いは いつまでも絶えなかったに ちがいない。

古史古伝や古代文字の焚書は そのための政策であった。 
記紀の紀年を調べると、大きな矛盾が生まれてくるのも、覇権の正統性を巡る政策の 結果であった。 


からくにだけ:九州
韓国岳倭国の聖地だった


(1)
まず、紀元前 数世紀の話である。^^
半島には、倭国の領土があった。

『日本書紀』 卷第一(一書第4)
是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在

素戔嗚尊と五十猛は 新羅 曽尸茂梨に天降り、スサノオが この地 吾居ること 欲さず と言ったので、一緒に 埴土船で渡って 出雲 斐伊 川上の 鳥上峯に至った。(Wikipedia)


(2)
次に、紀元前 2世紀末から 4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した 馬韓について、韓と倭は陸続きであると記述している。




『三国志魏書』馬韓伝 には、
韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。

韓は 帯方郡の南にあり、東西は 海を限界とし、南は倭と接し、四方は 四千里ばかり。
とし、韓と倭は接している(陸続きである)と記述している。(Wikipedia)

また、『狗邪韓国(くやかんこく)は、3世紀中ごろ、朝鮮半島南部に存在した 倭国の領土。
狗邪韓国の成立時期は不詳。
中国の正史「三国志」「後漢書」に登場する。』(Wikipedia)
ともあり、このことは 3世紀以前の半島には、狗邪韓国という 倭国の領土があった という記述だ。

その頃の大陸では、後漢時代(25年-215年)に、
桓、靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓国。

桓帝と霊帝の末(146年-189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制御できず、多くの民が 韓国に流入した。

184年、「黄巾党の乱」が勃発し、魏の曹操の勢力は 青州黄巾党の一部と 五斗米道を陣営に取り込み、後の 晋王朝の基盤を築いた。

このとき、戦乱を嫌った 大量の黄巾党が 山東省から対岸の朝鮮半島や日本列島に逃げ込んだ と思われる。
これは卑弥呼の頃であり、倭国大乱の時期とも重なる。

また三世紀の 三韓征伐は、黄巾党の流入などにより混乱した 半島南部に影響を及ぼしたものかもしれない。


(3)
その後 6世紀には、こんなことがあった。
『日本書紀』によると 継体天皇6年(512年)に百済からの任那 四県の割譲要求があり、金村は賄賂を受けてこれを承認し、代わりに 五経博士を渡来させた。(Wikipedia)


(4)
そして、10世紀に完成した「唐会要」には、
古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。
とあり、倭国は 半島から海を越えると 明記している。


日本と中国の史料で、紀元前から 半島南部には日本(倭)領があり、しかし 六世紀に大伴金村が、百済に割譲して、日本(倭)領は無くなった ということが一致している。




他にそのことについての記述は? と探してみるとあった。



韓国岳(からくに岳)だ。

古事記には空国とあり、虚国嶽とも書かれている。

(晴れた日には 韓の国まで見渡せるほど高かったから 名が付いたとの説もあるが、今の韓国とは 関係がない。)


例えば、
はらから(同胞) 兄弟姉妹のこと。
うから (親=族)血縁の人々の総称。血族。親族。
やから (輩=族)同じ血筋の人々。一家一門。眷属。
          一族。
ともがら(輩)  同類の人々をさしていう語。仲間。

などの言葉に共通した(から)という言葉の存在がある。


古代、半島の南部の国々をこう呼んだ。

・狗邪韓国 :3世紀中ごろ倭国の領土だった。
       朝鮮半島南部に存在した狗邪韓国は、『くやから』と呼んだのではないか?
・伽耶諸国 :『宋書』で「任那、加羅」と併記される。
・意富加羅国:『日本書紀』垂仁天皇の条に、崇神天皇の御代、意富加羅国の王子・
       都怒我阿羅斯等、またの名、于斯岐阿利叱智干岐が、日本へやってきたとある。
馬韓・弁韓(弁辰)を、字は多様だが『から国』と言った。
・金官伽耶 :駕洛国


すなわち、倭国を構成した半島南部の国々は、はらから(同胞)の国であり、うから(血族)の国だった。

しかし、その後半島は、北からの 族に簒奪され、今に至っている。

過去に日記で、
① 百済の支配層と 被支配層の言葉が違ったことを 指摘し、また、
② 現代も、半島南部は政治的にも差別されていることを指摘した。


からこく=倭国、その聖地が『韓国岳』だったのではないだろうか?



伊那谷の 熊鰐氏 と 安曇氏 と 塩竃神社



伊那谷の駒ヶ根市東伊那の塩田という集落に「塩竃神社」があります。
御祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、 底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神です。



宮城県塩竈市の鹽竈神社の御祭神は、塩土老翁神・武甕槌命・経津主神ですが、伊那谷の塩竃神社は、伊弉諾から生まれた神々で、阿曇連(阿曇氏)の祖神の海神(わたのかみ)です。

志賀海神社の御祭神は綿津見三神の、底津綿津見大神・中津綿津見大神・上津綿津見大神で、代々阿曇氏が祭祀を司ります。

また、住吉大神の御祭神は住吉三神の、底筒之男大神・中筒之男大神・上筒之男大神です。



ではなぜ山奥に海にゆかりの塩竃神社があるのだろうか?

実は、伊那谷の大御食神社の古代文字で書かれた社伝記に、こう書かれています。

『またこれより すぐに中沢の 熊鰐(くまわに)に 山の 麁物和物(あらもの にぎもの)を菜らしめ、川戸幸をして 川の魚(まお)捕らしめ、また 野彦には 野つ物を取らしめて、大御食 大御酒 種々(くさぐさ)物を御饗(みあえ)たてまつれり。』




ここから分かるように、伊那谷に 熊鰐氏が いたのです。

熊鰐氏は、「日本書紀」にみえる豪族で、筑紫の岡県主の祖。
仲哀天皇8年天皇を周防の沙麼にでむかえ、魚と塩をとる地域を献上、海路を案内しました。
また干潮のため神功皇后の船が洞海湾を進めなくなった時、多くの魚と鳥を集めて皇后の怒りをしずめました。

また『神武天皇の兄達も熊鰐一族で、岡田宮に居住していた』という説もあります。

そして先代旧事紀によれば、神武東征のときに、饒速日命の従者の 防衛(ふせぎまもり)のなかに、赤須彦の先祖である表春命・天下春命らがいました。

ですから阿智一族と熊鰐一族は、縁のある関係だったことが推定されます。


穂高神社(白雉4年(653)創建)の主祭神穂高見命は、別名宇津志日金折命(うつくしかなさくのみこと)と称し、海神の御子で神武天皇の叔父神に当たり、太古此の地に降臨して信濃国の開発に大功を樹られたと伝えられ、阿曇連は子孫なりとあります。

阿曇(安曇)氏の先達が、すでに1900年前、この地にいたという、有力な証明なのです。