伊那谷は、古代から「風の谷」だった。


「伊勢津彦」は風の神であり、むかし信濃国へ渡ったという話があります。

伊勢津彦とは、『伊勢国風土記』逸文に見える 神武朝の神。

伊賀の 安志(あなし)の社に坐す神・出雲神の子・またの名を出雲建子命、天櫛玉命。石で城を造って居住していました。

神武が派遣した天日別命に、「国土を献上するか」と問われ、「否」と答え、伊勢を風濤に乗じて自ら去りました。

その後の、補の文に「近くは 信濃国にいる」とあります。


江戸の国学者・伴信友は『倭姫命世記考』でこう述べています。

伊勢津彦は 出雲神で 伊勢を領していた。

建御名方神は 一旦 伊勢津彦を頼って伊勢に逃れ、その後 信濃に去った。

だから 伊勢津彦は、その後に 信濃に逃げられた。

・・・・・

古代文字で書かれた「美しの杜伝記」には、こんなことが記されています。


允恭天皇の御代、秋文月、十一日より 嵐風 疾(とき)雨降りて 五日五夜 来よりて 小止まず。
故に 八十上津彦、大御食ノ社 神の前に御祈りするに 神 告げて詔り給はく、

大草ノ里 黒牛に坐ます 風の神の祟りなり。 この 神実(かみざね)を祀らば 穏(おたひ)ならむ」

と、現(おつつ)に 詔り給えり。

大草ノ里の長 武彦、岩瀬、阿智ノ宮主 牛足彦と共に議りて、種々の物を捧げ奉りて 称辞(たたえごと)申し給ひしかば、風なぎ 雨 止みて 穏になりけり。

七日の次の日 空晴れて 日の御影 明らかなり。


すなわち、伊那谷の大草の里(現 中川村)に、風の神がいます、・・・と。

(中川村 黒牛にある「風の三郎神社」)


小町谷家は、我が里・大御食神社の社家です。

『百家系図稿』に、その「小町谷」系図、があります。


その系図に、八意思兼尊の子・天表春命の子として「大久延建男命」という人がいます。

そして、「大久延建男命」の添え書きに、
 
建御名方命 諏訪に到り給いとき 大草に到座 大久延建男命と云う者あり」 

とあり、建御名方命とのかかわりが見て取れます。



これを見たとき、「この方が、伊勢津彦ではないか? でもそうなると、小町谷系図なるものの 信憑性が・・ 」と、考え込んでしまいました。


いろんな思いが 頭の中を駆け回っていますが、

伊勢津彦は 風の神 とされ、出雲神の子で又の名を 出雲建子命と云い、信濃に去った、とあり、

② 方や、大草ノ里には「黒牛に坐ます風の神」がおり、

③「小町谷」系図には「建御名方命 諏訪に到り給いとき 大草に到座 大久延建男命と云う者あり

などとあることから、やはり、伊那谷は「風の谷」だったんだ!

古代史に見る、朝鮮半島・民族の悲劇

古代史から見た現代の高句麗・新羅・百済
 ー 半島を方言で見る 古代と現代 ー

【朝鮮半島は新・三国時代へ】 という新聞記事が以前、産経ニュースに載ったことがある。 http://c23.biz/HF3m  魚拓 http://c23.biz/fcxX


朝鮮半島は1945年、南北分割で南の韓国に北の黄海道出身の李承晩政権ができた。

李承晩は北の黄海道出身で親米・反共主義者として知られ、北からの多くの避難民が韓国に逃れてきた。こんな経緯もあって李政権下では北出身者が羽振りを利かした。

韓国政治が南出身者中心になるのは1960年代の慶尚道出身の朴正煕政権からだ。

ところが この朴政権に対し金大中氏に象徴される全羅道出身者が反政府派の中心となり、韓国政治に 東西対立がはじまった。

総選挙では毎回、東(慶尚道)は与党、西(全羅道)は野党と支持分布が くっきり分かれている。

もし南北が統一したあかつきには 「 統一韓国の政治は東西に 北出身者を加えた “三つどもえ” になる 」という話もある。

歴史的にいえば、古代史の新羅(東)、百済(西)、高句麗(北)による三国時代の 再現である。

         


そこで、現在の方言の分布図と、三韓時代の地図を併せてみた。

① 平安道(へいあんどう、ピョンアンド)は、朝鮮八道の一つ。
 高麗時代には西北面と呼ばれ、太宗13年(1413)に平安道と改名された。
中心は平壌にあり、平壌府が置かれた。

② 咸鏡道 (かんきょうどう、ハムギョンド)
 朝鮮三国時代の高句麗の後、渤海が領有し、後に北部は女真族の地となった。
李氏朝鮮・世宗の時代に侵略して併合し、北境が確定した。

③ 京畿道 (けいきどう、キョンギド)(含 黄海道)
 三国時代(BC18)以来、政治的に重要な場所であり、百済が河南の慰礼城を首都に定めたが → 5世紀半ば高句麗に併合 → 553年新羅の領土 → 高麗の太祖・王健が開城を首都に定めてからは、京畿地域は歴史の中心舞台として浮上し、1018年から正式に「京畿」と呼ぶようになった。

④ 全羅道 (ぜんらどう、チョルラド)
 全羅北道と、全羅南道に属する羅州の頭文字で、金大中の出身地で、最大野党でもある民主統合党(中道左派政党)の強固な支持基盤となっている。

⑤ 慶尚南道 (けいしょうなんどう、キョンサンナムド)
慶尚とは、慶州(新羅の古都)、尚州を組み合わせた言葉である。

⑥ 済州島(さいしゅうとう、チェジュとう)
 15世紀初めごろまでは 耽羅という独立した王国があった。

               ◇

朝鮮半島を方言区分で見ると、古代からの高句麗・新羅・百済の区分が根強く残っていることがよく分かる。

注目すべきは、歴史的には、高句麗・新羅・百済は まったく異なる国柄だったことだ。

どう国柄が違うかは、別な機会に譲るが、半島の中は、今でも 高句麗・新羅・百済 同様に、まったく違う国なのである。

朝鮮半島の複雑な国情を理解しようとしたら、古代の歴史を紐解かねばなるまい!

竹内文献が偽書でない記述が中国の史書にある

「竹内文献」を虚心坦懐に読みなおしてみよう!

竹内文献に書かれている内容を、中国の史書が裏付けているという驚愕の事実があります。

日本の旧約聖書である竹内文献では、天地創造の時に宇宙創造の神々から地上に初めて出られた万物創造神を「スメラミコト」とされたとあり、以来「スメラミコト」は長い年月をかけて国々を作られた。

一方前漢・司馬遷は、『史記』秦始皇本紀において、皇帝という称号を定める文脈で、大陸の言い伝えとして天皇・地皇・泰皇(人皇)の三皇をあげている。

この三皇を「竹内文献」の記述に則して著すならば、天皇は「宇宙創造の神々」で有り、「地皇」は「万物創造の神(スメラミコト)」にあたり、泰皇(人皇)は、皇統を統る「スメラミコト」にあたると思われる。

すなわち大陸でも、「竹内文献」に書かれている太古の歴史の記憶が残っていて、やがて文字になり今日に至っているのです。


具体的に挙げてみましょう。
斎藤忠著「盗まれた日本建国の謎」から要点を引用させていただきますが・・・。

Ⅰ)『十八史略』巻一  太古
天皇氏、以木德王。歳起摂提。無為而化。兄弟十二人、各一万八千歳。
すなわち「天皇氏は太古の昔から 王である」と記されている。

Ⅱ)前漢代、袁康の『越絶書』には、「夫れ、越王勾践は、東僻と雖もなお、天皇の位に繋がる」すなわち、「東方僻地の(日本に近い)王は、天皇たり得る」とある。

Ⅲ)唐代の補筆された『史記』の冒頭に、「最初に天地のうちに現れた君主が、天皇である」と記されている。

Ⅳ)四世紀の道士 葛洪は 著書『枕中書』のうちで、扶桑大帝東王公は天皇なりとし、「扶桑大帝は東王公であり、元陽父と号し、碧中に住す。…上に太真宮有り、天皇と為り…云々」と、説いた。
すなわち「天皇は、大陸東方海上の島に住み、そこを治める日神なる君主神」ということなのです。

Ⅴ)山海経(せんがいきょう)という「奇書」扱いされている最古の地理書(地誌)があるが、それによると、東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから太陽が昇るといわれ、扶桑・扶桑国は、日本の異称ともなった。

・・・勿論これらの話は、大陸の神話にある、伏羲・女媧・神農などの出る以前の話です。


一方日本では、「竹内文献」は七世紀に記紀が編纂された時代からすでに異端の書とされたと思われます。

天武天皇が壬申の乱において日本国の体制を完成させ、古事記・日本書紀を作られたが、完成した頃には既に藤原氏の影響が強まり、やがて律令体制が確立し公家・官僚らが国を支配してきた。
「竹内文献」は、倭朝の正統性を揺るがす歴代の複数の王朝を記すが故に、抹殺される運命にありました。

それは、明治以降になっても同じで、特高の「不敬罪」容疑での摘発や、「皇祖皇太神宮天津教」弾圧などにおいて、「竹内文献の偽書化」がなされました。

しかしそのうえで、UFOなどの情報が科学的に明らかになりつつある現在こそ、「竹内文献」を虚心に読み直し、再評価する時が来たのではないかと思う次第です。