社伝記解読(3)
故に 赤須(あかつ)彦の名を称えて御食津彦と日本武尊自ら名付け給ふ。
中沢は、赤須の里から天竜川を夾んで、赤石山脈の山懐の深い里である。
日本武尊また問ひて詔り給はく、「この杉はや、弥栄えて丈高し、奇(くし)び杉なりや。」
御食津彦 答えて申し給はく、
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それ故に、山の麁物和物(あらものにぎもの)・川の魚(まお)・野つ物は、豊富であったことだろう。
熊鰐(くまわに)、川戸幸、野彦とは、何者であろうか?
熊鰐は、「日本書紀」にみえる豪族で筑紫の岡県主の祖という。
仲哀天皇八年、天皇を周防の沙麼(さば)に出迎え、魚と塩をとる地域を献上、海路を案内した、とある。
一方には、熊鰐とは事代主の一族であり、天皇家を支える権力者であるという説もある。
川戸幸、野彦も、この地の豪族であったと思われる。
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社伝記解読(4)
御食津彦答えて申し給はく、
「天照らすこの御蔭杉、久方の月の御蔭杉、綾御杉奇び杉なり。
朝日には嶺に蔭さし、夕陽には尾根に蔭さし、神の代に武御南方ノ神も愛(め)で、汝(な)が親ゝも幾代愛で、また天皇(すめらみこと)の御子も愛で給ひ、今の現(おつつ)に見るが如(ごと)、巡りて抱き十余(とうあま)り、弥栄え弥茂りて雨漏らず、幾丈ありや否知らず、奇(くし)び杉なりこの杉はや。
御食津彦の乙女一人あり、名を押姫と云う。
朝日には嶺に蔭さし、夕陽には尾根に蔭さし、神の代に武御南方ノ神も愛(め)で、汝(な)が親ゝも幾代愛で、また天皇(すめらみこと)の御子も愛で給ひ、今の現(おつつ)に見るが如(ごと)、巡りて抱き十余(とうあま)り、弥栄え弥茂りて雨漏らず、幾丈ありや否知らず、奇(くし)び杉なりこの杉はや。
御食津彦の乙女一人あり、名を押姫と云う。
◇
御蔭杉についての問答がつづく。
「神の代に武御南方ノ神も愛(め)で・・・」
「天皇(すめらみこと)の御子も愛で給ひ・・・」
とあるが、どんな言い伝えがあったのか?
「巡りて抱き十余(とうあま)り」とは、よほどの大杉だったに違いない。
御食津彦(赤須彦)に一人の娘がいた。
名を押姫(おしひめ)という。 ・・・その物語が続く。
名を押姫(おしひめ)という。 ・・・その物語が続く。