古代文字で書かれた社伝記を読む



-上巻-


纏向(まきむく)の 日代(ひしろ)の宮に、天ノしろしめし給ひし、大帯日子 淤斯呂和気ノ 天皇の御代、日本武尊 東(あずま)の 蝦夷(えみし)等 言向け 平和(やわし)給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を 御還り ましし 給ひし時に、この赤須ノ里に至り ましぬ。


時に 赤須彦、御蔭の杉の 木の下(もと)に 仮宮を設け、八重管薦(やえすがこも) 八重を敷き並び、厳(いか)し楯矛 御旗立て並べ、いと 厳かにす。

待饗(まちあい)し 給ひして、日本武尊(やまとたけのみこと)を 迎え たてまつりき。

日本武尊 御蔭の杉の 木 清々(すがすが)し と 告(の)り給ひて、御安楽居給ふ。

日本武尊 問ひて 告り給はく、「汝(いまし)は 誰(た)ぞや」。

応(こた)え給はく、
吾は この国の 魁師(ひとこのかみ)、阿智ノ宮に 齊(いは)い 祀(まつ)る、思兼ノ命の子 表春(うわはる)の命の 裔(はっこ)、阿知の命の 御子 阿知山の裔の 別裔、 赤須彦なり。
天皇の御子 い出ますと 聞き、迎え たてまつりき。

故に 真榊の 一つ枝には、頭槌(かうつつ)の 劔を 懸け、二つ枝 には 八華型の 御鏡を 懸け、三つ枝には 和弊(にぎたえ)を 懸け、大前に 迎え 立て 並べ、群肝(むらぎも)の 真心表しまつりて、詔(みことのり)の まにまに 帰順(まつろい)まつる。
御誓(みうけ)ひ たてまつれり。

また これより すぐに 中沢の 熊鰐(のわに)に 山の 麁物 和物(あらもの にぎもの)を 菜らしめ、川戸幸をして 川の魚(まお) 捕らしめ、また野彦には 野つ物を 取らしめて、大御食 大御酒種々(くさぐさ)物を 御饗(みあえ) たてまつれり。

 故に 赤須彦の名を称えて 御食津彦と日本武尊 自ら 名付け給ふ。

日本武尊 また 問ひて 詔り給はく、「この杉はや、弥栄えて 丈高し、奇(くし)び 杉なりや。」

御食津彦 答えて 申し給はく、「天照らす この御蔭杉、久方の月の 御蔭杉、綾御杉 奇び杉なり。

朝日には 嶺に蔭さし、夕陽には 尾根に蔭さし、神の代に 武御南方ノ神も 愛(め)で、汝(な)が親ゝも 幾代 愛で、また天皇(すめらみこと)の 御子も愛で給ひ、今の現(おつつ)に 見るが如(ごと)、巡りて 抱き十余(とうあま)り、弥栄え 弥茂りて 雨漏らず、幾丈ありや 否 知らず、奇び杉なり この杉はや。


御食津彦の乙女 一人あり、名を 押し姫と 云う。
尊 いと愛で 給いて、三夜 御座(おはし)ませり。

別れに臨みて 歌いて 詔り給はく、
「二夜三夜、二人寝しかも、飽かずかも。 美し乙女 愛(あ)しけやし。居立ち 廻(もとほ)り、愛(は)しけやし 乙女。」

押姫 答(いらえ)歌 奉りて、
「愛しけやし、我が 大君の 御手に捲く、珠 持つ日根子 忘られず、珠 持つ 日根子 忘れられず、吾夫(あせ)を 占(し)め延(は)む、吾夫を占め延む。」

御食津彦 人々共に 日本武尊を 送り奉れり。


日本武尊 御安楽居(みやすらい)し時に、小石(ささかなるいし)と 詔(の)り 奉(たま)いて 御手掛け給ひし 故に、『御手掛け石』 と 名付く。

また 大御酒奉りし時、御盃を置き給ひし故に 平瓮(ひらか)石 とも 申す。

御渡りの 神は 建御名方ノ神 なり。
御国の 巡りの時 奇の 杉なり と 詔らせ 給ひて 愛で給ひし故に、国の人の 斎奉(いつきまつれる なり。

天降(あも)りますとの 神の称えに、国人(くにひと)の 斎祀れるなり。


美社(うつくしのもり) 大御食社(おほみけのやしろ)の 御寶(みたから)
一尺五寸 磨刃(ひとさか いつき とぎは)    頭槌之 御剱(かうつつの みつるぎ)
八華形ノ 御鏡(やつはながたの みかがみ)   総(すべ)渡り 八寸(やき)余り



大足彦忍代別天皇(すめらみこと)の御代 四十八年(よそじまりやとせ)、御食彦 御蔭の杉の木の下(もと)に 御安楽居(みやすらい)し その仮宮を神の御殿(みあらか)に見立て、日本武尊を 祝い祀りて 大御食ノ社(おおみけのやしろ)と 御名を附け 奉りき。



息長帯日子ノ御代 八年の 秋葉月、御蔭の杉枯れにき。

然れども 御蔭杉の 中つ枝に 大空(おおうつろ) あり。
杉の実 生いて、巡りて一抱き余り 成る 有り。
よりて 同じ天皇の五年の春弥生、植え継ぎの御業、また その御杉もて、御殿(みあらか)を 御建て、御渡ノ神幣(かみぬさ)奉り、厳し楯矛 御旗、厳しく清(すが)しく、日本武尊の 御霊を 御渡り 奉れり。

遠方(おち)の里人 近き村人 うち集ひ、先例(さきのためし)のままに、大御酒 大御食 粟の餅と、種々(くさぐさ)の物を 捧げ奉りて、賀言(よごと) 祝言(ほごと)を 申し、七日七夜 歌い 舞い 栄らぎ 奉りき。

その秋 穀物(たなつもの)豊けく 実れり。
また 孫生(ひこばえ)の稲、多(さわ)に実りて 豊けし。

家々の人 慶び 楽しみ 舞い 歌いて、
「大君の 御代も 安けく穏(たひ)しきや 豊けく 御稲(みとし) 多(さわ)なりて 白酒 黒酒も 群肝(むらきも)の心のままに 多々(さわさわ)に 神に奉らん 多々に 大多々に 多々に。」


〔 上巻 了 〕


◇  



-下巻-


軽島の明宮(あかしのみや)に 坐(ましまし)給ひし 品陀和気(ほむだわけ)ノ尊〔応神天皇〕の御代三十八年の水無月九日の 朝まだき小暗きに、上穂ノ里太郎真彦の弟(おと)の子・八尾取(やおとり)というに憑(かか)りていわく、
「吾は日本武尊なり、尾張ノ国なる厳郎女(いついらつひめ)と共に住まむ。迎えませよ」。

また「乙女の床の辺に、吾が置きし剣の太刀その剣はや」と言いて、社(やしろ)を巡り巡りたり。


よりて御食彦の裔瑞健彦、阿知の真主篠建大人阿知島ノ里に住む大武彦と議りて、秋文月二十二日(あきふづき はつかまりふたひ)と云う日、尾張ノ国熱田ノ宮より草薙ノ剱の御霊代、また美しの杜に坐(ま)す宮簀姫またの名は厳郎姫を迎えまつりて、所の名を美しの杜と御名負はせまつる。


熱田ノ宮より迎え奉るその装(よそほひ)いは、厳楯矛(いかしたてほこ)、日の御旗、月の御旗、覆衾(おほひふすま)、御榊に木綿(ゆう)取り垂でて迎え奉れり。


また、先例(さきのためし)の随々(まにまに)、御黒酒、御白酒、はた大御食種々の物を、山成す如く供え奉りて、遠近の里人(おちこちのさちひと)集ひ、七夜七日宴の宿直(とのい)奉りき。
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はた : 副詞・接続語など修飾語で「はた(将)」、何かしら強調しているもの。
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同じ天皇の三十九年の秋文月、御剣の分け御霊を、また上穂ノ里に 八剱ノ宮として齋い祀りき。

また同じ天皇の御代、四十年の秋文月、宮田の里の長、兄守(えもり) また弟守(おともり)と共に議(はか)りて、宮簀姫を迎え奉りて、田比中と云う所の清地(すがち)に 祠を建て齋い祀りき。

これ大御食ノ社に迎え坐(ま)しし、宮簀姫の 分け御霊なり。

また同じ尊の御代、四十二年の夏卯月、上穂ノ里に、伊勢の国五十鈴の川上に坐(ましま)す 天照皇御神(あまてらすすめみかみ)と、諏訪ノ社に坐す建御名方ノ神を迎え奉り、相殿に齋い奉り、社の名を五十鈴社(いすずやしろ)と 名を負わせ奉りき。

大神酒、大御食(おおみけ)種々の物を捧げ奉りて三夜三日(みよみひ)宴奉りき。



大鷦鷯(おおささぎ)ノ天皇[仁徳天皇]の御代、四年の葉月、御食彦の裔八玉彦、はた片桐ノ里人と共に議りて、諏訪ノ社に坐す 建御名方ノ神を迎え奉りて、齋い奉りき。

同じ天皇の御代、二十年(はたとせ)の秋文月、八玉彦、諏訪ノ社に坐す 建御名方ノ神を迎え奉りて、齋い奉りて、中沢ノ里 菅沼の清地一所(すがちひとところ)、また田切川の清地一所、また石曽根ノ里 清地二所、はた与田切の清地一所、はた宮田ノ里の清地一所、併せ六所に祠を建て、齋い奉りき。

その時、昼夜 里里の笑(え)らき歌声四方に響(とよ)もせり。



雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわかこすくね)ノ尊[允恭天皇]の御代、五年(いつとせ)の秋文月、十一日(とまりひとひ)より、嵐風疾き(あらかせとき)雨降りて五日五夜 きより小止まず。

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かせこそよらめ、波こそきよるとよみては、風のより波のよるになる也。(荷田春満:萬葉集卷第二童子問)
おやむ 【小▽止む】(雨・雪などが)少しの間やむ。
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故に八十上津彦、大御食ノ社も 神の前に御祈りするに、神告げて詔り給はく、大草ノ里 黒牛に坐(ま)す 風の神の祟りなり。

この神実(かみざね)を祀らば、穏(おたひ)ならむと、現(おつつ)に詔り給えり。

是は、おさおさしきことなりとて、大草ノ里の長 武彦、はた岩瀬、はた阿智ノ宮主 牛足彦と共に議りて、種々の物を捧げ奉りて 称辞(たたえごと)申し給ひしかば、風凪(なぎ)雨止みて 穏(おたひ)になりけり。
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おさ‐おさ 〔をさをさ〕: 確かに。
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七日の次の日 空晴れて 日の御影明らかなり。
うち集いし里里 三十二里(みそしあまりふた)の里人なり。
その祭し所 御饗所(おみあえと)と云うなり。



大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけのみこと)[雄略天皇]の御代、十四年(とまりよせ)の冬神無月五日、御食萬彦(みけよろずひこ)大御食ノ社の 屋根の注(そそ)ぎを補い奉りて、先例(さきのためし)の随(まにま)に 御饗奉りて、日 七日、夜 七夜 遠近の里人と共に 歌楽(えらき)奉りき。
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そそぎ 【注ぎ】《古くは「そそき」》 :  水などが飛び散ってかかること。
えらき  :  歌楽 「古語拾遺」に、「時に于て 天照大神・・・群神何の由に 如此(かく) 歌楽(えらき)するや』 と のたまひて云々
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渟中倉太珠敷ノ尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)[敏達天皇]の御代、十一年の春弥生、阿智ノ宮  川合の陵(かわあいのみささき)損ない破れり。

故に 大壯(みあらか)を改め造りて、同じ年の秋葉月七日(なぬか) 八意思兼尊を、阿智ノ宮主 八葉別(やつはわけ)ノ大人(うし)、大御食ノ社 大足葦津彦(おおたりあしつひこ)と共に 神御霊を 御(み)移し奉りて 大神酒 大御食種々の物を捧げ奉りて 七夜七日御祭り奉りき。

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大壯(みあらか): 宮殿の古語
うし : 上代語 領主や貴人に対する敬称。
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文徳天皇の御代、斉衡三年皐月、御影杉 枯れにき。
巡り巡り七抱き余り、丈 幾杖と 云うことを知らず。
杉の影、夏の朝日には、田切(たきれ)川の 川上に影沢あり。
その頂きに、影差す。 故に影沢と名付く。

ある夜、里人五人(いつたり)の者、皆 影沢に行き 見るに、奇(あや)しき杉の木あり。
木綿(ゆふ)取り垂(し)でたり。

その杉の 木(こ)の本に、神 坐(いま)せり。
この杉の木を持ちて 植え継ぎせよ、と 詔(のら)せ給える。

同じ夢 御見たるなり。
よりて 翌る朝(あした)語り合いて行きて見るに 夢見る如く、木綿 取り垂でたれ、奇(あや)しき杉なる。

故に 赤須彦にそのある様を語り告げき。
赤須彦も行きて見るに 奇しい杉なり。

よりて 先の例の随(まにま)に 杉の木を以て 神の御殿(あらか)を建て、さて阿智ノ宮の祝(はふり)千幡彦、はた大草ノ里の長 武彦、はた徳麿(のりまろ)と議て御蔭杉の植え継ぎ奉りき。
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【さ】…そう、それ(指示語)【て】…~して(単純接続)
「さて」の連語で、「そうして、そういう状態で、そのままで」という意味
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その装いは、片桐ノ里人五人、はた大草ノ里人五人、その旗印赤色。
はた市田ノ里、鵜沼ノ里人十五人(とまりいつたり)、この旗印黄色。
はた阿島(あししま)ノ里、知久の里人十九人(とまりここのひと)、この旗印浅黄。
はた育良(いから)ノ里人三十七人、この旗印白色、はた桃色。
中沢ノ里人十一人、この旗印黒色。
宮田ノ里、小出ノ里人十一人、この旗印青色。
赤須、石曽根、上穂(わぶ)、田切(たきれ)、与田切(よたきれ)ノ里人二十一人、旗印紫なり。
太鼓(たいこ)、小鼓(こづつみ)、時の新歌(にいうた)唄いて弾きける定めしなり。


同じ帝(みかど)の天安二年、春弥生八日に、定め申しける里人々揃い、植え継ぎの杉 曳き始め、十四日曳き 引き来たり。

十五日植え継ぎの神業(かみわざ)あり。
十六日 日本武尊 厳郎姫(いついらつひめ)二柱の 御渡り奉れり。

先の例の随に、大御食 大神酒 海山川の種々の物、山成すごと 御饗(みあえ)奉りて、七日七夜歌い舞い 宿直(とのい)の宴(うたげ)奉れり。



宇多天皇の御代、寛平三年の春 弥生十五日、大和ノ国 春日ノ御社の祭り、流鏑馬騎射を移して、大御食ノ社御祭りに、宮ノ原にて 流鏑馬の法弓の騎射を行い始む。



陽成天皇の御代、元慶三年の春 弥生十五日、山城ノ国 石清水八幡ノ宮より赤須彦、八幡ノ御神を迎え奉りて、美ノ社(うつくしのやしろ)の相殿(あいとの)に齋い祀り、例の随に、大御食 大神酒 種々の物 御饗(みあえ)奉りて、七日七夜歌い舞い 宴(うたげ)奉りき。



村上天皇の御代、天暦五年の秋文月、稲に 虫付きけるに、御(み)祈り奉れり。

また、笹舞い踊り、童(わらべ)二十二人(はたまりふたり) 手に笹の葉扇を持ち、踊り唄いて曰わく、

「稲虫ノ祟あらすな御年神(みとしかみ)、白猪 白馬 鶏(かけ)ぞ奉らん。
  またあな楽し ああれ楽しさ、田穀(たなつもの)畑つ種々、八束穂(やつかほ)に 豊けく実り、
  あな楽し、ああれ楽しさ、天安国(あめやすくに)平らけく 於介(おけ)や 於介(おけ)。」

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かけ【▽鶏】ニワトリの古名。
たなつもの 年穀・味つ物・種・穀・穀類を総称する古語 


おけ : 延喜式、貞観儀式の鎮魂の条に 宇気槽(うけふね) を伏せて桙(ほこ)で撞く(つく)、その時のかけ声が 「おけ」 で、神楽歌では 囃子言葉 「於介(おけ)」 となる。


宮中 及び神社等で歌われる神楽歌に、『阿知女作法(あじめのさほう)』がある。
神の降臨を喜び、神聖な雰囲気を作るためと思われる一種の呪文で、あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)、お~けー(一度)のフレーズを阿知女作法と呼び、これが2組(本方・末方)に分かれて唱和される。 於介(おけ) は、末方により唱和される。

すえ‐かた〔すゑ‐〕【末方】
宮廷の御神楽(みかぐら)のとき、二組に分かれた歌い手のうち、あとに歌いはじめる側。神殿に向かって右側に位置する。⇔本方(もとかた)。(Wikipedia)


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〔 下巻 了 〕



伊那谷 律令時代(10世紀)の地名(郷名)



倭名類聚鈔 (931-938 編纂) によると、奈良時代の 伊那谷の郡と郷名は、

以下の通りです。



【 諏訪郡 】

高山寺本 :  土武、 佐補、 美和、 桑原、 山鹿、 返良 

流布本   :  神戸


【 伊那郡 】

高山寺本 :  伴野、 小村、 麻積、 福知

流布本   :  輔衆



(参考)
天竜川の古名は 麁玉河







律令以前(1~2世紀)の伊那谷の地名


律令以前(1~2世紀)の伊那谷の地名を、社伝記から拾い出してみる。


当時の赤須彦は、赤須ノ里の長であり、

この国(おそらく阿智~山本)の 魁師(ひとこのかみ)であった。


小出の里、宮田の里、赤須の里、上穂の里、中沢の里、石曽根の里、片桐の里、

与田切の里、大草の里、市田の里、飯沼の里、知久の里、育良の里、

それに阿志島の里、と 合わせて十四の里が あったことが読み取れる。

(阿志島の里は、阿智の里かも知れない)