【社伝記】社伝記解読(2)



待饗(まちあい)し給ひして、日本武尊(やまとたけのみこと)を迎えたてまつりき。
日本武尊御蔭の杉の木清々(すがすが)しと告(の)り給ひて、御安楽居(みやすらい)給ふ。


日本武尊問ひて告り給はく、
「汝(いまし)は誰(た)ぞや」。
応(こた)え給はく、「吾はこの国の魁師(ひとこのかみ)、阿智ノ宮に齊(いは)い祀(まつ)る、思兼ノ命の子表春(うわはる)の命の裔(はっこ)、阿知の命の御子阿知山の裔の別裔、赤須彦なり。
天皇の御子い出ますと聞き、迎えたてまつりき。
故に真榊の一つ枝には、頭槌(かうつつ)の劔を懸け、二つ枝には八華型の御鏡を懸け、三つ枝には和弊(にぎたえ)を懸け、大前に迎え立て並べ、群肝(むらぎも)の真心表しまつりて、詔(みことの)りのまにまに帰順(まつろい)まつる。
御誓(みうけ)ひたてまつれり。



赤須彦待饗(まちあい)を受け、日本武尊は御蔭の杉のもとでお休みになった。

二代目の御蔭杉 ここでお休みになったと伝わる。

そこで、尊は赤須彦に問いかけた。
赤須彦は、
「私はこの里の首領で、阿智宮に祀る天思兼命の子表春命の末裔で、阿知の命の御子である阿知山の末裔から別れた赤須彦なり。」
と答えた。

この事は、赤須彦も高皇産霊神ファミリーの一員であることの証しであり、日本武尊の系統と同じであることを物語っている。
やがて七世紀の壬申の乱(672年)は、伊那谷も大きな影響を受けることになるが、古代文字で書かれた秘密の第一の理由が、ここに隠されているのではないか?と思われる。 (後に大和朝の覇権を握った藤原氏一族は、伊那谷を荘園として権勢をふるったが、大御食神社はその影響を受けたと思われる。)

すなわち日本武尊(景行朝)は、九州の天皇家だった証しではないのか?

そうでなければ、天皇の御子い出ますと聞き、迎えたてまつり、且つ頭槌の劔八華型の御鏡・和弊などを懸け、群肝の真心を表すだろうか?

その上で、帰順(まつろい)を御誓(みうけ)ひしたのだ。

【社伝記】社伝記解読(1)





美 社 神 字  (-上巻- 落合一平 解読版をもとに一部再読 ) 

纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮に、天ノしろしめし給ひし、大帯日子 淤斯呂和気ノ 天皇の御代、日本武尊 東(あずま)の蝦夷(えみし)等 言向け平和(やわし)給ひて、美鈴刈る信濃国を 御還りましし 給ひし時に、この赤須里に至りましぬ。

時に 赤須彦、御蔭の杉の木の下(もと)に 仮宮を設け、八重管薦(やえすがこも) 八重を敷き並び、厳(いか)し楯矛 御旗立て並べ、いと厳かにす。



纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮に・・・で始まる文章形式は、「豊後国風土記」「肥前国風土記」にある。

「纏向の日代の宮に天下を・・・」と、修飾して景行天皇を表現する原型がどこかにあったのか?
同じ、現存する他の風土記ではこういう表現はとっていないようだ。
播磨国風土記では単に、大帯日子命と記し、常陸国風土記でも単に大足日子天皇と記している)。

Wikipediaによると、「豊後国風土記は、編者も不詳であるが、大宰府が深く関わっていたと推定される。一説では、723年に西海道節度使として大宰府に着任した藤原宇合が、九州の他の国の風土記と合わせてわずか10ヶ月ほどで完成させたともいわれる。」とある。

太宰府は、664年、博多湾岸の那津官家(なのつのみやけ)にあった筑紫の大宰(つくしのだざいという役所)を、現在の大宰府政庁跡地(大宰府市観世音寺)に移転させ、正式に発足したようだから、当時(740年頃)は十分機能していただろう。

この表現は、日本書紀への権威付け(中央から、書紀の内容を風土記に反映させるようにという命令)があったのか? あるいは、太宰府の地方役人が大和王権へのゴマすりの結果か?

風土記の撰上が命ぜられたのが、和銅6年(713年)で、日本書紀の完成が養老4年(720年)。
倉野憲司井上光貞は、日本書紀の一部は風土記の材料が使用されているという説をとっている。
各地の風土記は、日本書紀と同時進行形で編集されていったのかもしれない。

そうすると、この社伝記も同時代のものと考える事が出来るが、ではなぜ古代文字で書かれたのか?という問いには、答えられない。

古代文字で書かれた理由には、他にとても大きな歴史上の秘密、意味があると思えるのだ。 (・・・・この項、別記予定)


【社伝記】古代文字・阿比留草文字で書かれた社伝記のこと


古事記及び日本書紀によると、それぞれ多少の相違はあるが、日本武尊の東征の帰路は相模国足柄山の笛吹峠~酒折宮~信濃国諏訪~伊那郡を通過し、阿智の御坂峠を越えて美濃・尾張に入ったと伝わる。

伊那郡には、小野・溝口・赤須等に、尊が休息されたという伝説が残る。

ここ、赤須の里の大御食神社には、通称「美女ヶ森昔時年代記」という記録が伝わる。そこには、日本武尊がこの地で三日三夜過ごしたことが書かれている。

古代文字で書かれた社伝記

一般には、解読した落合一平(直澄)が記した「美社神字解」と呼ばれているが、吾郷清彦氏「美しの杜物語」と題して全国に紹介した。


下記 口上書 には、社伝記を解読した経緯が書かれている。


美女ヶ森の神代文字に付き伊那懸廳へ差出せし口上書          

美女ヶ森大御食神社傳記の儀は、神主代々継目致し、登京帰宅の砌、三七日致潔斎、開封拝読仕候、然共異形の字体に候故、読者曾て無之、得聴明之人、可読明と申傳へ候処、天明二寅年八月二十二日夜、本書致焼失候へ共、幸に写本有之候而、今尚存在所持仕候
今般復古御一新の折節、明治二巳年正月、諸社由緒可書上御触有之候間、申傳而巳書上候処、同年四月中、将又傳記之御尋之有候間、致潔斎、五月八日社傳記入一覧候処、落合直澄(伊那懸大参事)殿、具に被為遊解読、縦往昔之傳説誠に明かに相成候而嬉々煌々難有奉拝読候、則奉神前且考古者の氏子にも為申聞候以上

明治三庚午年正月十日                                  
小町吾加賀           
吾 道 延 宣 (花押) 
伊那懸御役所