「伊那(いな)」の地名 起源考

「イナ」 という地名について通説を挙げてみると・・・

・伊那は、伊奈とも以奈とも書いたことは、倭名抄にも見えている。
稲に関係する以奈木(稲木)や伊奈久良(倉廩=穀物を蔵する也)などのことばに見ても、伊那の地名が稲に関することばから出たものであることは、ほぼ推想出来るとしなければならない。〈信濃地名新考〉

・「いな」(伊那)は非常に古い起源の高みや丘陵、段丘などをいう「うな」に由来する地名で、これが、「いな」に転じたものとみられ、さらに「うな」をたずねると、田や畑に見られる「うね」にいきつくわけです。

また「恵那山トンネル」の「恵那」も「うな」と同一の語源とみるのがよく、そうすると、「伊那」とも強い関連というよりも同じ性格の地名といえるわけです。〈長野県の地名 その由来〉


◆また信濃国伊那郡の「伊那」の由来には諸説あり、

① 湧き水(井)の多い名(国名)=井名とする説。

② 天竜川流域を開拓した 猪名部(伊那部)氏に因むとする説。

③ 信濃国造(しなののくにのみやつこ)である 建稲背命(たけいなしろのみこと)の名に因むとする説。

④ 古来、アイヌ民族の住む土地で、アイヌの神事に用いる木製の幣束である 「イナウ」 を祈り捧げたことから。

⑤ 砂や灰などの堆積物を 「よな」 と言い、砂地(よな)が多かったことから。

⑥ 「畝(うな)」 の転で 「高所」 という意味。

⑦ 古代、神事に関する名詞の接頭語として、《神聖な―》 や 《清められた―》 という意の 「いー」。  漢字では「斎/忌」と書く。
《広い場所》という意味の「野(の)」で「斎野(いの)」が転じた。

⑧ 《割れ目》 を意味する古代語の 「イヒ」+《場所、土地》 という意味の 「ナ」=谷あい を意味する 「イヒナ」 が 「イナ」となった。

中でも ② ③ 辺りが 有力とされているようです。


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【私の意見】

伝わる多くの 『 古伝書 』 には、地名など豊富な伝承が隠されています。
全国の神社伝承もまた歴史の貴重な資料です。
たとえば 『 秀真伝(ホツマツタエ) 』 などは現在偽書とされていますが、とんでもありません。大御食神社の社家の先祖である思兼命(阿智彦)の生涯は 『ほつまつたゑ』 に記されています。

例えば、滋賀県の伊勢遺跡は、弥生時代後期中頃から急激に発達した大規模集落で、ほつまつたゑには、和歌姫・思兼尊夫妻が結婚後に、野洲川べりに移り住んで宮を構えて、日嗣(ひつぎ)の皇子・忍穂耳尊(シホミミ)の御子守をしたと伝承され、思兼=阿智彦は死後、信濃の伊那洞に埋葬されたと、書かれています。

【  ・・・・・  サキニミコモリ   ( ・・・   先に身隠り  )】  ←  (史郎解釈)
【 オモイカネ シナノイナホラ  ( 思兼  シナノ去洞 )】
【 アチノカミ   ・・・・・・・   ( アチの神  ・・・・・・ )】

《 意訳 》
思兼命は、妻シタテル姫(アマテル神の姉)と共に、ヤスカワ宮(野洲川、滋賀県)で東宮である オシホミミの 御皇子守(ミコモリ)役をしていましたが、死後アチノ神(阿智神社、阿智村)の神名を送られて、信濃イナホラ(伊那洞)に葬られ神上がりました。

では、その伊那洞では、どう伝わっているか?
現地の案内板には、

式内阿智神社元宮の磐座 
磐座のあるこの小山は、昔から『河合の陵』と呼ばれる。
 ・・・
この巨石が、社殿の発達する以前、阿智族の守護神であり、祖先神である八意思兼神、その御児・天表春神二神の神霊を迎えて祭りが営まれた式内阿智神社の元宮である。・・・略

とあります。
しかし、事実は『ほつまつたゑ』に記されている通りの史跡となっています。



私は、伊那という地名は、去洞(イナホラ)= 神上がりした洞から転じたのだと思います。
当時の吾道彦(吾道家)の権勢は、社伝記によると阿智から現在の伊那市小沢側の南まで及んでいました。


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古代文字フォント

神代文字:阿比留草文字の「フォント」を作成してみました。


古代文字便覧を元に、類似文字は出典を変えて標準化の試みです。
ご笑覧下さい。




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    古代文字便覧 あ








大御食神社の社家は、高皇産霊神の末裔。

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『古事記』 によると、天地開闢の時、最初に天御中主神(あめのみなかぬし)が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすび)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神(たかみむすび)で、子に知恵の神・八意思兼神(やごころおもいかね)がいる。

天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の三神とされ、そのうち、神皇産霊神・高皇産霊神は、皇室・朝廷に直接的に関係していると考えられ、神祇官八神として八神殿で祀られた。


『先代旧事本紀』 では、思兼神は 信濃国に降り立って信之阿智祝の祖になったとし、また、秩父国造の祖となったとしている。
子に天表春命・天下春命がおり、共に阿智神社に祀られている。

また、『秀真伝』(ほつまつたえ)によると、思兼神は天照神の妹・和歌姫と夫婦となり、天野州川辺(野洲市・伊勢遺跡?)で、山陰・北陸を治め、手力男神(たじからお)をもうけた、と記される。

思兼神が身罷るに際し、現在の信濃國阿智村に【辞洞・去洞】(イナホラ)を設け、後に祀られた。 以後、【伊那】の地名となった。


『先代旧事本紀大成経』「神代皇代大成経序」 (かんみよ すめみよ の おほひなる つねのりの ついでぶみ) には、吾道家のことが記されている。 

推古天皇の言葉として聖徳太子が奏上するには、

「わが国は 神国であり 天皇は 日の神の子孫である」
と述べ、神徳が盛んな時は国は豊かゆえに神道と国家皇政の道が不可分である。
しながら神代は年々が過ぎていくごとに隔たり、先皇の行跡は 日々が過ぎて いくごとに隔たるが、それは
「近世の史家(このごろの ふみつかさ)は、或いは秘し、或いは偏りて 而も私無きことを得ず。」
と警告をし、その上で上宮太子(聖徳太子)は、
「天皇は、先代にあった出来事を 忠実に記して、後の天皇の永久の鏡として、それと違わない法を定めなければならない」

と訴えた。

これを聞いた 天皇は
「上宮太子の御意見は、また自分も兼ねて思慮していたことである。 大王上宮太子よ、御配慮なさって下さい。」
と答えた。。

そこで太子は、蘇我馬子の宿祢に命じ、朝廷にある記録と、吾道・物部・忌部・占部・出雲・三輪の 六家の、祖先人のことを記した家蔵の記録を集めさせ、また中臣御食子に命じて、馬子大臣と共に歴史の編纂を おさせになった

・・・・この後 上宮太子は、集めた記録を ご覧になって こう言われた。

「神代の事を見ると、まだ全く分明ではない。 隠し文があるのではないか。」
と。

忌部と占部が答えるには

「記録は 惜しんでないが、磐余彦天皇の御代に 本の祠に安置した、祖神の土笥(はにはこ) があります。」 
という。


平岡宮(忌部氏縁の社)と 泡輪宮(安房)から賜った 土簡五十筒の土笥は、上宮太子に 献上された。
 そこには 神代の出来事が すべて明らかに 記されてあった。


すなわち、吾道家は 『吾道・物部・忌部・占部・出雲・三輪の六家』 と称された、由緒ある家柄だった。

そして、神代文字(阿比留草文字)で書かれた美社(うつくしのやしろ)神字社伝記には、

「吾はこの国の魁師(ひとこのかみ)、阿智ノ宮に齊(いは)い祀(まつ)る、思兼ノ命の子、表春(うわはる)の命の裔(はっこ)、阿知の命の御子 阿知山の裔の 別裔、 赤須彦なり。
天皇の御子(日本武尊)い出ますと 聞き、迎え たてまつりき。」

と、赤須彦の出自が語られている。


大御食神社の神官家は、

高皇産霊神 ー 八意思兼神 ー 手力男神 ー 表春命・天下春命 ・・・・ 阿知命 ー 阿知山 ・・・

・・・ 赤須彦  ・・・・ (現)神官家

なのである。