律令以前(1~2世紀)の伊那谷の地名


律令以前(1~2世紀)の伊那谷の地名を、社伝記から拾い出してみる。


当時の赤須彦は、赤須ノ里の長であり、

この国(おそらく阿智~山本)の 魁師(ひとこのかみ)であった。


小出の里、宮田の里、赤須の里、上穂の里、中沢の里、石曽根の里、片桐の里、

与田切の里、大草の里、市田の里、飯沼の里、知久の里、育良の里、

それに阿志島の里、と 合わせて十四の里が あったことが読み取れる。

(阿志島の里は、阿智の里かも知れない)





社伝記を読む 下 (その一)


社伝記 下 (その一)


軽島の明宮(あかしのみや)に ましまし給いし、品陀和気ノ尊の御代、三十八年の水無月九日の 朝まだき 小暗きに、上穂ノ里太郎真彦の弟(おと)の子・八尾取(やおとり)というに憑(かか)りていわく、

「 吾は日本武尊なり、尾張ノ国なる 厳郎女(いついらつひめ)と共に住まむ。迎えませよ 」。

また「 乙女の床の辺に、吾が置きし剣の太刀 その剣はや 」

と言いて、社(やしろ)を巡り巡りたり。

よりて 御食彦の裔 瑞健彦、阿知の真主 篠建大人、阿知島ノ里に住む 大武彦と議りて、秋 文月 二十二日(あき ふづき はつかまりふたひ)と云う日、尾張ノ国 熱田ノ宮より 草薙ノ剱の御霊代、また 美しの杜に坐(ま)す宮簀姫 またの名は 厳郎姫 を迎え奉りて、所の名を 美しの森 と御名負はせまつる。

熱田ノ宮より迎え奉る その装(よそほひ)いは、厳楯矛(いかしたてほこ)、日の御旗、月の御旗、覆衾(おほひふすま)、御榊に木綿(ゆう)取り垂でて 迎え奉れり。

また、先例(さきのためし)の随々(まにまに)、御黒酒、御白酒、はた大御食種々の物を、山成す如く供え奉りて、遠近の里人(おちこちのさちひと)集ひ、七夜七日宴の 宿直(とのい)奉りき。
ー つづく ー





「 駒ヶ岳 」 地名の由来考




伊那谷から、木曽駒ヶ岳と 甲斐駒ヶ岳が 見えます。



駒ヶ根市は 『駒ヶ岳サミット』 を 提唱した市ですが、全国には、正式名称では16ケ所、通称では大小 いくつの 『駒ヶ岳』 があるのでしょう?


駒ヶ岳の名は、福井・富山・信濃・甲斐・神奈川以北にありますが、それには大きな理由があります。

紀元前37年頃~668年に、半島から大陸北部にかけて、扶余系民族による 『(前)高句麗 』 という国がありました。 日本語での古名は 「 こま 」 です。 

混同されやすいですが、『 後高句麗 』 (899年~918年)とは違う国です。 当然、高麗(こうらい) とも違います。 高麗は、(918年 - 1392年)王建(太祖)が建てた国。


古代、「 こま 」 の国からは、 『 弊賂弁(へろべ)島 』 と 『 渡島 』 を経て、列島に多数の帰化人が入植しました。



彼らが附けた山の名が、『 駒ヶ岳 』 なのです。
彼らはやがて、唐・高句麗系の進駐軍の支配する、大和朝廷に支配される側となりました。


日本海を見ると、ほぼ中央に大和堆(水深約400m)があります。
これが日本書紀で6世紀に 『 粛慎人が 「佐渡嶋北」 に住み着いた 』 とあるところの、今は無き 『 弊賂弁島 』 と 『 渡島 』 です。





大和朝廷の貴族や官僚たちは、「倭人」 を 『弥次さん』、「こま人」 を 『喜多さん』、また 「八つぁん、熊さん」 とか 「野次・馬」 と揶揄し、差別・卑下と懐柔策で日本の国を支配してきました。
(弥次は 八族と同じ、熊・馬は北と同じ意味)

徳川家康(江戸幕府)は、自らも弥次さん喜多さんの仲間なのに、三代将軍以降は朝廷の血も入り、朝廷の真似をして、差別と懐柔策を徹底し、体制の強化・存続を図ったのです。